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日本の城に登る・歩く
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     ( 沖 縄 の 城 )
  
  
    
[画像]  日本100名城  沖縄の城 首里城に登城する(No.100)
  
世界文化遺産 『琉球王国のグスク及び関連遺産群』、首里城にて
  
  
  
 
  


 1.沖縄県那覇市、首里城 (100)” に登城する
 
 首里城
 (しゅりじょう)
 日本百名城 No.100
 世界文化遺産登録
 沖縄県 那覇市
 (撮影 2015.12.11)
 首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にある城です。かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあります。

 琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城でありました。戦前は正殿などが国宝でしたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っていました。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元されています。
                (ウィキペディアより)   
(Size : 4,492KB)   首里城、”正殿”を望む 首里城歓会門より、城内を望む


 
 2.首里城 ”守礼門”より登城する
 
【守礼門について】
 「守礼(しゅれい)」とは「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれています。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味であります。首里城は石垣と城門の多い城ですが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある代表的な門がこの「守礼門」です。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されています。

 首里城での多数の城門や建築物には「公式の名称」の他に「別名」が付けられています。それらの呼び名から往時の琉球人の詩的な感覚が読みとれます。守礼門は古くは「首里門(しゅりもん)」ともいわれましたが、庶民は愛称として「上の綾門(いいのあやじょう)」と呼びました。「上の方にある美しい門」という意味であります。

 1527〜55年(第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)代)にはじめて建立され、1933年(昭和8)に国宝に指定されましたが沖縄戦で破壊されました。現在の門は1958年(昭和33)に復元されたものです。その後今日まで沖縄を象徴する観光施設として利用されています。2000年の記念紙幣2,000円札の絵柄にもなっています。    
(首里城公園管理センターHPより)

 
■ 首里城、”守礼門”を望む ■
首里城、”歓会(會)門”を望む
首里城、”歓会(會)門”より入城する.。記念写真にはバッチリな場所です
 



 3.首里城 ”歓会門”より入城する
 
■ 首里城、歓会門より城内を望む ■


「歓会(會)門(かんかいもん)について」   − 現地案内板より−

 首里城の城郭内に入る第一の正門です。中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」などを歓迎するという意味でこの名がつけられました。「あまへ御門(うじょう)」ともいいます。「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓(よろこ)んで迎(むか)える」を意味しており「歓会」はその漢訳です。
 門の両側の一対の獅子像「シーサー」は魔除けの意味をもっています。
 1500年前後創建。沖縄戦(1945年)で焼失し、1974(昭和49)年に復元されました。

首里城、”瑞泉門”(右上)を望む
首里城、”歓会門”からの眺望です
城内より”歓会門”を望む



 4.首里城 ”漏刻門”にて
 
■ 首里城、漏刻門近くより、城下を望む ■
■ ”漏刻門(ろうこくもん)”にて、瑞泉門を望む ■
首里城、廣福門は化粧直し中でした
”瑞泉門”を望む ”瑞泉門”の狛犬(しーさー?)です
瑞泉門より、”漏刻門(ろうこくもん)”に進む ”漏刻門(ろうこくもん)”からの眺めです。左側に日影台が有ります

「漏刻門(ろうこくもん)について」   − 現地案内板より−

 漏刻とは、中国語で水時計という意味です。この門の上の櫓の中に水で時間をはかる水槽(水時計)が設置されていました。門をすぎた広場には日時計(日影台)があり、その二つで時刻をはかり、太鼓をたたいて時をしらせました。
 別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいいます。駕籠で登城することを許されていた身分の高い役人も、国王に敬意を表しこの門で駕籠から下りたということからそのように呼ばれました。
 創建は15世紀頃。老巧化のため昭和初期には撤去されていたものを1992(平成4)年に復元しました。


首里城、”漏刻門(ろうこくもん)”を望む。中央の奥の門は”歓会門”です。右手前は”久慶門”です
 



 
 5.首里城 ”正殿” にて
■ 首里城、”奉神門”を望む ■
首里城、奉神門をとおり、正殿に進む
  
首里城御庭(うなー)にて、正殿を望む
”正殿”を望む
  
   正殿のアップ写真です。◆カーソルセットで拡大します

「正殿について」   (首里城公園管理センターHPより)

 正殿は琉球王国最大の木造建造物で国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物であった。
 正殿を二層三階建てとすることや装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式といってよいだろう。
首里城正殿の壁等の彩色塗装には、桐油が塗られている。なお、下地の一部は漆である。



 6.首里城 ”正殿の内部” にて
 
■ 首里城正殿、玉座(復元)を望む ■
首里城、”書院”を望む
首里城正殿、”正殿3階”への階段です。ビックリするぐらい急な階段です
首里城、正殿遺構。見学通路上より見ることができます
 首里城、”正殿”より、城下を望む
  
首里城、”南殿(左側)、番所”を望む 首里城、奥書院から庭園を望む 首里城正殿、”御差床”です 首里城正殿、”上御茶の間御飾”です


「首里城正殿の遺構について」   (首里城公園管理センターHPより)

 首里城正殿は創建以来、戦火・失火により四度の焼失と再建を繰り返しています。
正殿の床下にある石積みは、焼失・再建を繰り返した首里城正殿の遺構となっています。
 現在の首里城正殿は本来の遺構を保護するため、約70pほどかさ上げして建築されています。



  7.”首里城” 案内
 
【 首里城の歴史 】
 首里城の創建年代は明らかにはなっていません。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されています。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に築城したものと考えられています。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなく、史書に記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しています。消失する度に再建されてきましたが毎回木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしていました。          (ウィキペディアより)

 
首里城の石垣です。上段が復元石積み、下段が遺構石積みです
首里城正殿、”国王の玉冠”(複製品)です。原資料は絹製で玉(金、銀、水晶、珊瑚、碧玉(へきぎょく)、ガラス)などで飾られています
首里城、正殿への入場券とパンフレットです
  
首里城、”久慶門”を望む。首里城観光の出口となっていました
首里城、守礼門前にて
  
  
首里城、城内より”守礼門”を望む 首里城、日影台(日時計)です 首里城、御庭にて後方は正殿です 首里城内の貴重な水源、”寒水川樋川”です
  
  
  
 
 
( 後   記 )
 首里城は沖縄を代表するシンボル、建造物と思っておりましたが、保存、再建には大変な苦労が有ったとのことです。明治になり、王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になり、昭和の初めに正殿の改修がおこなわれ国宝に指定されたとのことです。しかし戦争により破壊され、戦後、守礼門から徐々に復興され、今日の姿になったとのことです。

 首里城本殿の形はなんとなく日本の神社に似ていると思いました。ただ装飾品は中国の王の象徴の龍が多く使われており、この辺りは中国の影響を受けているのかと思いました。


 先の戦争で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊され沖縄の歴史と文化の一部が無くなったことは、とても残念なことです。そして何よりも首里城のすぐ近くには第32軍司令部壕の入口がありました。戦争のつめ跡が生々しく残っていました。

 首里城からな眺める青い海と青い空、そして石垣の曲線の美しさは沖縄の城でないと味わえない物でした。   
(2016/3/10)
 
 
首里城、案内板です。立派です
 
首里城、城下を望む
 
首里城、”歓会門”を望む
 
  
  
  
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