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     ( 九 州 の 城 )
  
  
  
[画像]  日本100名城  九州の城 島原城に登城する(No.91)
  
島原城 天守閣を望む  
  
  
 
  


 1.長崎県島原市 ”島原城 (91)” に登城する
 
 島原城
 (しまばらじょう)
 日本百名城 No.91
 長崎県 島原市
 (撮影 2016.5.3)
 島原城(しまばらじょう)は、長崎県島原市城内にあった日本の城です。別名は「森岳城」や「高来城」といわれています。城跡は長崎県指定史跡および日本100名城に指定されています。

 島原城は有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置しています。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴の城となっています。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれ、橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に袋の鼠状態になり、しかも廊下橋は、防備上矢玉が当たりにくくなるので、縄張りの欠陥とも言われています。
                (ウィキペディアより)   
(Size : 5,349KB)   島原城、天守台、巽の櫓(西望記念館)を望む 島原城、天守閣を望む


 
 2.島原城 本丸に入城する
 
【島原城の築城】
 島原城は1618(元和4)年から、松倉豊後守重政が4年〜7年の歳月をかけて築いた城です。五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城でした。

 築城以来約250年間、4氏19代の居城として、数多くの出来事がありました。しかし、明治維新で解体され、立ち木一本に至るまで民間に払い下げられ、売却されてしまいました。島原の乱で炎上を免れ、寛政の大地変では倒壊を免れた天守閣も、1876(明治9)年には解体され、本丸は畑地となり、三の丸は学校用地にとなりました。      
(健美伝心(長崎県編)HPより)

 
■ 島原城に入場する。島原城は本丸が駐車場になっています ■


島原城、西の櫓を望む






島原城、本丸入口を望む






島原城、本丸入口より市内を望む




島原城、天守閣を望む
 



 3.島原城 ”天守閣”を望む
 
■ 島原城、天守閣を望む。1964年(昭和39年)復元、キリシタン資料・藩政時代の資料を展示する歴史資料館になっています ■
島原城、天守閣入口を望む
天守閣入口、入場券売り場の様子です


天守閣内部、歴史資料館の案内板です



島原城、天守閣出口を望む



 4.島原城 ”天守閣”に登る
 


島原城、天守閣 最上階を望む




■ 島原城、天守からの眺望です。正面は島原駅です ■
■ 島原城、天守より二の丸(森岳公民館、島原文化会館)を望む ■


天守閣最上階の様子です




天守からの眺望です。西櫓を望む
天守からの眺望、西櫓を望む 天守からの眺望です
島原市街を望む 島原駅を望む

「島原城の復元について」   − 健美伝心(長崎県編)HPより−

 島原城は明治の廃城令により天守閣をはじめ全ての建物を失くし石垣と掘だけになりました。島原の人の城復活の熱意が実り、

     〇1960(昭和35)年に「西の櫓(やぐら)」を復元
     〇1964(昭和39)年に「天守閣」を復元
         天守閣は資料館として、収集した史・資料を「キリシタン史料」「郷土史料」「民俗史料」
         と各階毎に展示しています。

     〇1972(昭和47)年に「巽(たつみ)の櫓」を復元
         郷土出身者で文化勲章受賞者である北村西望(せいぼう)先生の彫塑(ちょうそ)を展示する
         「西望記念館」として開館しました。


天守からの眺望です
天守閣最上階の様子です
< 天守閣資料館の展示物の一部です >
 
展示物の一部です。◆カーソルセットで拡大します
フランシスコ・ザビエルの肖像画です 影踏・踏絵です。キリスト教禁止政策です 花十字模様丼です 島原城下絵図です
 
 



 
 5.島原城の ”櫓 (西の櫓・巽の櫓・丑寅の櫓)” にて
<巽の櫓(西望記念館)にて>
■ 島原城、巽の櫓(西望記念館)を望む ■


巽の櫓(西望記念館)より、天守閣を望む






西望記念館(巽の櫓)には、長崎原爆が丘にあります ”平和記念像の最初の雛型”が展示されています





島原城、巽の櫓(西望記念館)を望む
  
<丑寅の櫓(民具資料館)にて>
島原城、丑寅の櫓(民具資料館)を望む
<西の櫓にて>


島原城、”西の櫓”を望む




”西の櫓”内部の様子です

「島原城、巽の櫓(西望記念館):北村西望(きたむらせいぼう)氏について」  (南島原市HPより)

 北村西望(きたむらせいぼう)は、明治17年12月16日、旧名家であった北村家の四男として旧南有馬村の白木野に生まれました。
 幼少の頃から図工が好きで個性的で大胆な作品を作り、常に周囲を驚かしていました。京都市立美術学校(現在の京都市立芸術大学)、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を首席で卒業後、建畠大夢・池田勇八らと彫刻の研究会「八手会」を結成し、彫刻の道を歩みました。
 大正6年文展に出品した「光にうたれる悪魔」で知られるようになり、昭和13年は国会議事堂内に設置してある「板垣退助翁」像の制作、戦後になって長崎市からの依頼により製作した「平和祈念像」は、西望の代表作のひとつです。昭和51年には、宮中に「天馬」を献納するなど、数々の作品を制作しました。 昭和62年3月4日没。満102才(享年104才)。







 6.島原城 散策 (1)
 
■ 島原城、天守閣を望む ■
島原城、天守閣を望む
島原城、古野梅林にて
島原城、本丸への入口を望む
島原城、本丸と二の丸の間にて、本丸の石垣を望む
  
島原城、本丸と二の丸の間にて、本丸の石垣を望む 島原城、本丸と二の丸の間にて 島原城、本丸と二の丸の間にて、本丸の石垣を望む 巽の櫓(西望記念館)を望む(右側の櫓) 



「島原城について」   


 大手御門跡から眺める島原城の五層の白い天守閣は、空によく映えます。堀から15メートル上に矢狭間(やざま;矢を射るための穴)をもつ瓦葺白壁塀とその上に三層の巽櫓、右手に丑寅櫓と左手の西櫓、そしてその上に五層の白色総塗込みの天守閣が35メートルの高さにそびえ立っています。
 外郭は東西約360メートル、南北約1260メートル。周囲に約3900メートルの塀をめぐらせて、要所には大小16の櫓を配置して、4万石の大名にしては過分な城であったようです。

 現在の島原城は1964(昭和39)年の建築で、藩日記や諸記録、大正末の島原城絵などを元に築城当時のように復元されたものです。館内は各種資料館になっています。








  7.”島原城” 案内
 
【 島原城について 】    ー 島原城パンフレットより −
 島原城のあるこの地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きをました。
 ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。
以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と4氏19代の居城として輝きました。その間、1637(寛永14)年島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、1792(寛政4)年島原大変時には打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。

 明治維新で廃城になり、払い下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続きました。1964(昭和39)年天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取り戻しつつあります。     


 


本丸より、古野梅林方面を望む





島原城現地案内板です
丑寅の櫓(民具資料館)を望む
丑寅の櫓(民具資料館)を望む
  
 島原城、丑寅の櫓(民具資料館)、天守閣を望む
島原城天守閣への入場券です
  
  
島原城、本丸にある鐘です 愛らしい侍姿は観光客を楽しませてくれました 雨のため天守閣入口での記念写真です 島原城入口(駐車場)の案内版です
  
  
  
 
 
( 後   記 )
 島原城は暴風雨の中の登城となりました。キリスト教・築城での圧政・島原の乱・天草四郎・・・と、ここ島原での様々出来事は歴史の授業で学びました。
 石垣、櫓、天守閣は4万石の大名とは思えない規模、立派さでした。色々な出来事を持った城でしたが島原の人々の熱意が実り、櫓・天守閣が復元された現在の姿は本当によいことだと思いました。

 島原城内で甲冑に身を包みサムライに変身しましたが、自分のあまりにも貧弱な姿に・・・。雨の中ではありましたが島原城の雄大さ、美しさを十分に味会うことができる城めぐりとなりました。   
(2016/12/31)
 
島原城本丸入口より、濠を望む(本丸に向かって左側の濠です)
 
 

雨・風のためのぼりも下され、威勢の良い島原城を見ることができませんでした。残念!
 
島原城、天守閣と巽の櫓(西望記念館)を望む。堂々と威厳のあるアングルです
 


島原城の濠と石垣を望む、見事な石垣です




島原城、西望記念館(巽の櫓)に展示されています、平和祈念像の雛型です
 
  
  
  
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