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 日本の城に登る・歩く
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    ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  愛媛県大洲市 ”大洲城(82)” に登城する
  
  
  
  
  
  
  
  
 愛媛県大洲市 ”大洲城 (82)” を訪れる
 
 大洲城 (おおずじょう)
 日本百名城 No.82 
 愛媛県 大洲市
 (撮影 2011.05.02)
 大洲城(おおずじょう)は伊予国喜多郡大洲(四国・愛媛県大洲市大洲)にあった日本の城です。

  大洲に初めて築城したのは、鎌倉時代末期、元徳3年(1331年)に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房であるといわれています。
 宇都宮氏はその後、二百数十年間にわたり南伊予を中心に支配をし、永禄の末期の毛利氏の伊予出兵まで続きました。その後天正13年(1585年)に豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となりました。
 その後戸田勝隆、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営されました。   (ウィキペディアより)   
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肱川より、大洲城を望む 大洲城天守を望む
 


 大洲城に登城する(1)
 

 【大洲城について】

 肱川の河畔に望む大洲城は、元弘元年(1331年)鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって築城されたといわれ、その後、藤堂高虎等によって大規模に修築がなされ、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していきました。

 明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されましたが、明治21年(1888年)老朽化により、惜しくも天守は解体されました。
 その後、大洲城を愛する地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付等によって平成16年(2004年)に復元されました。
 四層四階の複連結式天守の復元にあたっては、明治時代の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料を基に当時の姿を正確に復元されました。このように復元に必要な多くの資料が残っていることは大変稀なことで、大洲城の天守の復元は、まさに地元住民の想いと、史料研究の集大成と言えます。
 現在、江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓は国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されています。              
(大洲市HPより)

 
■ 大洲城、下台所(手前)と天守を望む ■
  
大洲城、石垣を望む
 


 大洲城に登城する(2)
 
■ 下台所奥の石垣です ■
  
  
大洲城の石垣です 
大洲城の石垣は、石を形成せず”野面積み”で積まれています。このため大小さまざまな石からなっています
天守へ進む
  
城入口には、古風な造りの家が並びます ”下台所”を望む 発掘調査中で立ち入り禁止区域です 天守閣の礎石が展示されています
 


 大洲城 ”天守”にて
 
■ 大洲城、”高欄櫓(こうらんやぐら)”(左側)を望む ■
  
大洲城本丸を望む。大洲城の本丸は上段と下段にに分かれています。下段が井戸丸(写真左下)となっています
”本丸(上段)”にて(1)
”本丸(上段)”にて(2)
”天守”及び”台所櫓”を望む

【台所櫓(だいどころやぐら)】
 大洲城の櫓の中では最大級のもので、内部に土間を配し煙出し用の格子窓が開けられています。現在の台所櫓は安政4年(1857)の大地震で大破し、安政6年(1859)に再建されたものです。昭和45年(1970)に解体修理を行なっています。     (大洲市 HPより)



  
                                                                             ”暗がり門”跡を望む 
 


 大洲城 ”天守”を望む(1)

 【 大洲城の復元 】

 大洲城は戦後復元された木造天守としての四層四階は日本初で、19.15mの高さは日本一となります。また、本来なら建築基準法では認められない規模であったため、当時、愛媛県に建設計画をなかなか認めてもらえませんでしたが、2年近い折衝を経て、保存建築物として建築基準法の適用除外となり、往年の複合連結式による天守群の復元にいたりました。

 使用された木材はすべて国産材で、天守の内部に足を踏み入れれば、城郭建築特有の迫力ある木組が訪れる人を驚かせます。             
(大洲市 HPより)

 
■ 天然の要害、肱川より大洲城を望む ■
大洲城、天守を望む
大洲城、”苧綿櫓(おわたやぐら)”を望む。手前は肱川です

【”苧綿櫓(おわたやぐら)】

  苧綿櫓は城山の東南山麓肱川左岸石垣上に建てられています。昭和三十二年六月十八日、二重二階の櫓と棟札二枚が重要文化財の指定を受けています。
大洲城の創建については諸説もあるが、1596年から1617年(慶長元~元和三)にかけての造営と推定されています。苧綿櫓がその頃からあったかどうか明らかでないが、加藤家所蔵の1692年(元禄五)の古地図に記載されているのを見ても、元禄以前に存在していたことと思われます。
 現存の苧綿櫓は棟札にあるとおり大破したので、1843年(天保三)に改築されており、実戦的と言うよりもむしろ装飾性が強く、袴腰形石落し、北側の出窓等に表れている。石垣は安山岩を使用した割石乱石積、法勾配及び反り付きで、鯱は大洲藩お抱え瓦師原八兵衛の作とのことです。
 その後の改築は、大洲市が国庫の補助を得て、1958年(昭和三十三)8月1日着工、1959年(昭和三十四)7月31日に竣工、現在に至っています。      (大洲市 HPより)



  
  
        ”苧綿櫓(おわたやぐら)”を望む             ”神伝流発祥の地”碑です                   肱川には屋形舟が係留されていました


 大洲城 ”天守”を望む(2)
 
■ 肱川対岸より、大洲城を望む ■

井戸丸と石垣修復の案内版です 本丸下段、井戸丸にある井戸です 井戸丸にある直径約3.8mの井戸の内部です 玉櫓跡を望む
 


 ”大洲城” 案内
 
【日本百名城 大洲城】
 【 築城三大名人の築いたお城、大洲城 】

 愛媛県には今治城や宇和島城、伊予松山城など有名なお城が多く存在するが大洲城は藤堂高虎が大改築に携わった城として知られています。

 藤堂高虎は、加藤清正や黒田官兵衛と並んで「築城三大名人」と称されている人物です。特に加藤清正と対比されることが多く、その違いは石垣の特徴にはっきりと表れています。加藤清正が石垣の反りにこだわったのに対し、藤堂高虎は石垣の高さを重視しました。現在の大洲城の石垣も高さはあるが、野面積みという石を形成せずに積んだ古い方法を取っているのも特徴のひとつとなっています。             
(SUMURAI JAPAN HPより)

 
■ 大洲城、本丸(上段)より肱川を望む ■
城入口前の家並みです
  
  
         大洲城の駐車場です              NHK朝ドラ”おはなはん(通り)”の案内がありました         大洲城への入口です
現地案内板にありました、明治時代(復元前)の写真です。この後、老巧化のため解体されたとのことです
大洲城、中江藤樹像のある広場です

   

中江藤樹像です。(◆カーソルセットで拡大します)
  
道路に埋め込まれた絵です(1) 道路に埋め込まれた絵です(2) 大洲城、本丸にて "道路に埋め込まれた絵です(3)
  
 
Yahoo!地図より Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示) Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
 
 
           
後   記   
 肱川に浮かぶ大洲城はまことに見事なお城と思いました。肱川を天然の要害として造られ当時は濠に囲まれ、天守には井戸もあることを考えれば城としてはなかなかの立地条件を備えていた城と思いました。
 天守の復元、現存櫓の解体修理など行い、城は見事な美しさを保ちながら、毅然と立っておりました。

 帰りの時、何気なく見た街中の案内板にNHKの朝ドラの”おはなはん”のロケ地であることが分かりました。”おはんはん通り”と案内板がありましたが、なんとなく通り過ぎたことは残念でした。次は城下町をゆっくりと味わいに来てみたいと思います。    
(2015/11/30)

 
 
肱川対岸より、大洲城天守を望む
 
肱川より、大洲城を望む
 
大洲城を天守を望む
 


  
  
  
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