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    ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  岡山県高梁市 現存12天守の一つ ”備中松山城(68)” を訪れる
  
  
  
  
  
  
  
  
 岡山県高梁市 ”備中松山城(68)” に登城する
 
 備中松山城
 (びっちゅうまつやまじょう)
 日本百名城 No.68 
 岡山県 高梁市
 (撮影 2014.03.22)
 松山城(まつやまじょう)は岡山県高梁市内山下にある山城で、別名、高梁城(たかはしじょう)といわれています。四国の愛媛県松山市にあった松山城 (伊予国)と混同を避けるため、一般的には「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼ばれています。国の史跡、日本100名城に指定されています。
 
 城跡は江戸時代に建造された天守や二重櫓などが国の重要文化財に指定されています。標高430メートルの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城としては最も高い所にある城です。     (ウィキペディアより)   
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備中松山城、天守より二重櫓を望む 備中松山城、天守を望む
 


 備中松山城 ”中太鼓丸櫓跡”にて
 

 【備中松山城について】

 標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683(天和三)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。

 この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返されています。

 登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが舌を巻いた”難攻不落の名城”の面影をうかがい知ることができます。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守。秋には大手門付近の木々が紅葉し、岩壁が燃えるような朱色に覆われる景色は圧巻です。  
(高梁市市役所HPより)

 
■ 備中松山城,、中太鼓丸櫓跡からの眺望 ■
【中太鼓丸櫓跡】
  かって御根小屋と天守との伝達手段として使われた太鼓丸櫓。下太鼓丸櫓の二つの中継地点をもうけ、太鼓の合図で連絡を取り合っていた。  
(現地パンフレットより)
  
備中松山城,、中太鼓丸櫓跡(右側の石垣)を望む 備中松山城,、中太鼓丸櫓跡を望む
 


 備中松山城 ”石垣群”を望む
 
■ 備中松山城,、石垣群を望む。手前は三の丸跡です ■
  
備中松山城,、三の平櫓東土塀(重要文化財)を望む 備中松山城,、石垣群を望む
  
三の丸から二の丸への道です   備中松山城、四の平櫓跡(左側)を望む 石垣群の上部”厩曲(うまやぐるわ)より三の丸を望む ”足軽箱番所橋”にて
 


 備中松山城 ”天守”へと向かう
 
■ 備中松山城、天守を望む(二の丸跡にて) ■
  
備中松山城、黒門跡付近からの風景です。この先が二の丸です 備中松山城、二の丸櫓門跡より天守を望む
備中松山城、石垣です
備中松山城、三の丸跡から大手櫓跡(左側)望む。正面は重要文化財 ”三の平櫓東土塀”です 
 


 備中松山城 ”天守”にて
 

 【時代の荒波をくぐり抜けた「朝敵の城」備中松山城】

 幕末の備中松山藩には、二十万石の大名に匹敵する農兵を中心にした鉄砲組があり、長州出兵でも先鋒になったという。しかしこれは幕府軍の一部として行動することを想定しており、五万石の小国に独自の軍事行動を起こす力はない。そもそも、幕府軍中枢として日本中を逃げ回っている藩主とはろくに連絡もとれない。困った立場に置かれた備中松山藩は不在中の藩主を説得して降伏させ、城を無血開城すると新政府軍に約束し、いわばクーデターでこの難局を乗り切った。

 幕末の戦乱の中で多くの城が破壊され、また明治時代の廃城令によって、旧体制の象徴であった全国の城は解体されていった。それなのになぜ「朝敵の城」が生き残ることになったのだろう。実は備中松山城も競売にかけられたが、天守閣が山上にあるため跡地の再利用のめどが立たず解体費用もかさむため、落札者がそのまま放置したのだという。城下に近かった御根小屋は解体・再利用され、跡地は岡山県立高梁高校となっている。山城が思わぬところで「天然の要害」の威力を発揮したことが、山城唯一の現存天守を後代に残すこととなった。    
(朝日新聞DIGITALより)

 
■ 備中松山城、本末より ”天守”を望む。巨大な岩盤の上に石垣が築かれています ■
天守の岩塊の手前にあります、”本丸跡”です
  
二の丸から本丸へ、”本丸南御門”へ進む 本丸南御門より、本丸、天守を望む
備中松山城、本丸南御門を望む
  


 備中松山城 ”二重櫓”を望む
 
■ 備中松山城、二重櫓(手前)、天守(後方)を望む ■
備中松山城、本丸の石垣と天守を望む 備中松山城、本丸を望む。手前は本丸東御門です
備中松山城、”後曲輪跡”を望む 備中松山城、二重櫓を望む

本丸横より、”二重櫓”を望む 本丸後側の岩盤です 本丸南御門より、入場券売り場方面を望む 備中松山城、二の丸にて
  
 


 ”備中松山城” 案内 (天守にて)
 
【日本百名城 備中松山城】
 【 備中松山城の歴史】

 備中松山城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に 任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。
その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化しますが、なかでも天正二年(1574)に起こった 「備中兵乱」時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山ー大要塞となっていたことがうかがえます。

 当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が 防長二国に退いてからも、備中 国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築が なされるなどなど備中の要衝としての役割を担っていたようです。
以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えますが、現存する 天守などは天和三年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。             
(高梁市観光協会HPより)

 
■ 備中松山城、天守からの眺望です。二の丸方面を望む ■
  
備中松山城、天守への入口です 備中松山城天守、最上階の様子です
 【盛岡城城内の櫻山神社】
備中松山城、天守内部の様子です(1) 備中松山城、天守の出入口です 備中松山城、天守内部の様子です(2) 備中松山城、天守内部の様子です(3)
  
  
  
城見橋公園駐車場を望む
  
 【盛岡城城内の櫻山神社】
城見橋公園駐車場より、ふいご峠への登山道入口です 備中松山城 ”ふいご峠”にて 備中松山城、”本丸跡”にて 城見橋公園にて
 
  
 
Yahoo!地図より Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示) Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
 
 
           
後   記   
 備中松山城は、現存12天守の一つということで早く行きたい城の一つでした。登城の前に展望台で雲海に浮かぶ備中松山城を見る予定で出発しました。前日は倉敷に宿泊し早朝、高梁市の展望台へ向け出発しました。現地は深い霧の中、山間部の道路事情も良く分からないことも有り、展望台行きはあきらめ城見橋公園へと向かいました。

 城見橋公園駐車場出発時は、ガスが立ち込め山頂部は全く見渡せませんでした。天守までは、軽度のハイキングでした、中太鼓丸跡より城下(市内)の眺望は、朝のガスの残る中なかなかのものでした。天守までの歩きは、途中の石垣群を眺めながらの登りでしたが、次々と現れる石垣にアッというまに二の丸に到着しました。二の丸から見た天守の凛々しさはまことに見事でした。
 自分の足で登らないと見ることのできない天守。吸い込まれそうな青空の中、白のアクセントを残しそびえ立つ天守、感動ものでした。

 次回は、展望台より、雲海に浮かぶ備中松山城をぜひ見て見たいと思います。また今回の備中松山城で現存12天守の登城となりました。  
(2014/4/2)

 

  
 
備中松山城にて、鯱鉾を望む (◆カーソルセットで現地案内板、復元想像図が表示されます)
 


  
  
  
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