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    ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  島根県津和野 ”津和野城(66)” を訪れる
  
  
  
  
  
  
  
  
 日本有数の山城 ”津和野城” に登城する
 
 津和野城 (つわのじょう)
 日本百名城 No.66
 島根県鹿足郡津和野町
 (撮影 2013.04.27)
 津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高367メートルの山上、島根県鹿足郡津和野町後田にある山城です。江戸時代には津和野藩亀井氏の居城でありまたが、藩庁は急峻な山城を避け山麓の津和野盆地に置かれていました。 (ウィキペディアより)   
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津和野城、人質櫓跡を望む 津和野城、三十間台より城下を望む
 



 
 津山城 ”出丸(綾部丸)” に登る
 

 【津和野城の築城(1)】

 津和野城は、鎌倉時代、元寇の翌年の弘安5年(1283年)吉見頼行は沿岸防備のため西石見地方の地頭としてこの地に赴任しました。永仁3年(1295年)より三本松城(津和野城の旧名)の築城を開始し正中元年(1324年)完成しました。以後、14代にわたり吉見氏が居城しました。  
(ウィキペディアより)

 
■ 津和野城 ”出丸(綾部丸)”です。本城までは約224mのところです。 ■
■ 津和野城 ”出丸”から城下を望む。中央左手前は、太鼓谷稲荷神社です。 ■
  
 
 
 出丸から本城の道を進む ”出丸”の門跡です
 
 津和野城 ”東門” にて
 
■ 津和野城、東門(旧:大手門)を望む。(登城者の安全確保のため、仮設足場が設けられていました) 東門へは立ち入り禁止でした(2013.4.27) ■
  
 
 
  出丸と本城の間にあります。 『史跡 津和野城址』碑と案内版
  
津和野城、”西櫓門(三段櫓)跡”を望む 津和野城、”東門”へと進む
  津和野城は、東門をとおり、西櫓門をくぐり、二の丸へと進みます。登城した日は、仮設の足場で東門手前から三の丸へ進むようになっておりました。二の丸は進入禁止になっていました。
 
 津和野城 ”馬立・台所・海老櫓” 方面を望む
   
■ 津和野城、 ”台所跡”を望む ■
 【現地案内板より】   −津和野町教育委員会ー
 ここは本丸の西、当城の三の丸にあたる。階段を上って左は馬立と言われ、乗馬をつなぎとめておく所、右は三段櫓の最上部の建物へつながる。
馬立の奥には台所が有り、石列による排水の機能が見て取れる。
さらに奥には海老櫓といわれる建物があり、搦手(からめて)(喜時雨側)に直面する望楼であった。
周囲は塀で囲まれ、その支柱を支えるための控え石がおおむね一間(1.8bおきに置かれている。
  
津和野城、”西櫓跡”を望む 津和野城、台所跡付近より”天守台”方面を望む
 
 津和野城 ”三の丸” にて
 
【津和野城の築城(2)】

 津和野城の14代当主吉見広長は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利配下として大坂城を守りました。しかし、毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏は防長2国に押し込められました。吉見氏も津和野を退去し、毛利氏とともに萩に移住しました。

 代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石で入城し、城の大改修を行いました。大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や織部丸を築き、二の丸に天守を築きました。

 元和3年(1617年)因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城し、以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となりました。
貞享3年(1686年)津和野城は落雷による火災で天守を焼失。以後再建されることはありませんでした。   
(ウィキペディアより)
 
■ 三の丸から人質櫓跡の石垣を望む ■
  
津和野城、三の丸より”南門跡”を望む 津和野城、”天守台跡”(手前石垣)、”三十間台”(奥の石垣)を望む
  
  
 
”三段櫓跡”を望む ”天守台”を望む ”番所跡”を望む 南門跡より三十間台を望む
  
 
 津和野城、最上部 ”三十間台”からの眺望
  
■ 三十間台より、三の丸方面をを望む (手前:人質櫓、奥:三の丸です) ■
   
津和野城、太鼓丸より三十間台への入口(門跡)を望む。 津和野城、最上部”三十間台”にて
  
  
  
二の丸方面の様子です。侵入禁止でした。 太鼓丸から三十間台へ ”太鼓丸”より、三十間台を望む 太鼓丸の石垣です
  
   
”天守台”より、三の丸を望む
 島根県 ”津和野城” 案内
  
【日本百名城 津和野城】

 【 史跡 津和野城  −現地案内版より− 】

 当城跡は、初め一本松城といい、のち三本松城と改めた全国でも有数の山城跡である。築城は弘安の頃この地の地頭として、鎌倉幕府から補任された吉見三河守頼行の永仁三年(1295)に始まり二代頼直の正中元年(1325)に完成したと伝えるが、まだその頃にはいまのような構えではなかたろう。吉見氏はこの地で十四代続いたが、慶長五年(1600)関が原の役にあたり、毛利氏に従って西軍に味方したため、敗れて長州へ移り、ここは翌六年、坂崎出羽守成正が入部した。坂崎氏は、従来の搦手を大手に改め、北方に出丸織部丸を築くなどして城の構えを整えたが、かの千姫事件によって改易され、あとへは元和三年(1617)因州鹿野から亀井将矩が移封された。

 亀井氏はこの地で十一代続き、隠岐守慈藍(これみ)に至って明治維新を迎えるが、その間、延宝四年(1676)の大地震によって城郭が大被害を受けたため、これをその後四度にわたって修理している。したがって、いま見る石垣の大部分は、むしろこの時期の修築に成るものと見るのが妥当であろう。

 本丸は海抜367メートル、近世の絵図面などによると、本丸を中心に城門六、櫓が十四あったことがわかるが、天守は貞享三年(1686)、落雷のために焼失してから、ついに建つことがなかった。その他の建物も明治七年(1874)にはことごとく解体され、今ではただ石垣と多くの曲輪跡とが往時を偲ぶすがたとなっている。

       昭和四十六年九月
               津和野町教育委員会

  
■ 津和野城最上部、三十間台より城下を望む ■
   
町内より、津和野城を望む 町内より、津和野城を望む(ズームアップしました石垣が望めます)
  
津和野城登山道入口です。登りはリフト、下山はこの道を利用しました。
 駐車場の様子です リフト乗り場にある案内板です  リフトで山頂へ向かいます 津和野城、リフト乗り場の様子です
 
  
  
Yahoo!地図より Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示) Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
 
           
後   記   
 自宅から津和野までは、約1,000q程の距離があります。5月の連休を利用し、渋滞の中、17時間ほど車を走らせ津和野の大鳥居に着きました。大鳥居より津和野川と津和野の町並、正面山上の津和野城址の眺めは車の疲れが吹っ飛ばすのには充分な景色でした。

 津和野城へは、時間の都合で登りはリフトで上がり、帰りは登山道を利用しました。整然と積み上げられた山上の石垣には圧倒されました。ふもとより運び造られ、天守台の石には重さ2tを超える物もあるという。三の丸から見た石垣、三十間台の足元から切れ立った石垣と眼下の街並の風景にはある種の爽快さを感じました。

 津和野城は日本有数の山城、次回来る時は中国自然歩道を交え、山中を自由自在に歩きまわって見たいと思いました。  
(2014/2/15)

津和野城、三の丸へ進む。左は人質櫓の石垣、正面は三の丸です
  
津和野城最高部、広い”三十間台”の全景です
 
  
  
  
  
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