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    ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  山梨県甲府市 ”武田氏館跡(武田神社)(27)” を訪れる
  
  
  
  
  
  
  
  
 山梨県甲府市 ”武田氏館(武田神社)(27)” を訪れる
 
 武田氏館(たけだしやかた)、
 躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)
 (竹田神社)
 日本百名城 No.27 
 山梨県 甲府市
 (撮影 2013.04.13)
 武田氏館又は躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中町、甲府盆地北縁にあります。戦国時代の永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により居館(躑躅ヶ崎館、武田氏館)が築かれ、家臣団が集住して武田城下町が形成されました。以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代にわたって武田領国の中心地として機能し天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地でありました。

 豊臣大名時代には南方の甲府市丸の内に新たに甲府城が築城され、江戸時代にかけても甲斐統治の政治的中心地となったため、武田氏館は破却された。館の破却時期は不明であるが、『甲斐国志』によれば要害城が慶長5年(1600年)に破却されていることおから、同時期であると考えられています。

     (ウィキペディアより)   
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武田氏館跡(武田神社)、濠を望む 武田神社拝殿を望む
 


 武田神社に参拝する(1)
 

 【武田神社と躑躅ヶ崎館(竹田氏館)について】

 武田神社は信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に石和より移した躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡に鎮座致しております。この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定されました。
 館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残り、信玄公を始め一族の遺香を現在まで伝えると共に、神社創建の折、県内各所より寄進を受けた数百種類の樹木が四季折々の風景を見せます。また、境内にある「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益があるといわれております。
                     
(竹田神社HPより)

 
■ 武田通りより、武田神社を望む ■
  
神橋付近から、石段と鳥居を望む。両側の石垣は城塞そのもで有る
 


 武田神社に参拝する(2)
 
■ 正面は武田神社、拝殿です ■
  
  
             武田神社、神橋を望む                武田神社、境内の様子です                      
 【武田神社について】   -総社市HPより-

 武田神社は武田信玄公を御祭神としてお祀り申し上げております。
信玄公はあらためて申すまでもなく、我が国戦国時代きっての名将であります。大永元年(1521年)当神社の背後に控える石水寺要害城に誕生され、天正元年4月12日に上洛の夢半ばに信州駒場で53歳の生涯を終えますが、21歳の時に国主となって以来30年余、緒戦に連戦連勝を重ねるのみならず、 領国の経営に心血を注ぐ中、特に治水工事、農業・商業の隆興に力を入れ、領民にも深く愛されました。
  
武田氏館跡、濠を望む(1) 濠にかかる、”みその橋”です 武田氏館跡、濠を望む(2) 濠にかかる、”神橋”を望む
武田氏館跡、濠にかかる”神橋”望む
 


 武田神社に参拝する(3)
 
■ 武田神社、拝殿を望む(1) ■
  
武田神社、拝殿を望む。この奥に中門があり、”本殿”があります
  
        ”甲陽武能殿”を望む                    境内にあります、”榎天神社”と”絵馬”です。絵馬は変わった形をしています 
 


 武田神社 境内にて

  【武田氏館(跡)について】

 武田氏館は、甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館で、守護所が所在しました。現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されておます。県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡となっています。
 戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっています。信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となっています。

 武田氏館は、県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置し、東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっています。
    
       (ウィキペディアより)

 
■ 武田神社より、城下を見渡す ■
武田神社の風林火山の”絵馬”です
  
  
        武田神社、境内にて                      境内には神輿が飾ってありました              名水”姫の井戸”の水です
 
”武田水琴窟”を望む
  


 武田氏館跡(たけだしやかたあと) ”西曲輪北側枡形虎口南門跡にて
 
■ 武田氏館跡、南門跡を望む ■
  
武田氏館跡、土塁を望む

武田氏館跡にて(1) 武田氏館跡にて(2) 武田氏館跡にて(3) 武田氏館跡にて(4)
 


 武田神社 (武田氏館跡(たけだしやかたあと)” 案内  (大手門東史跡公園にて)
 
【日本百名城 武田氏館(武田神社)】
 【 武田氏館の構造 】

 武田氏館は、周囲の堀を含めて東西約200メートル・南北約190メートル、面積は約1.4万坪(約4.6万m²)と推定されています。

 外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館です。東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(うち、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造成)等から構成され、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっています。2006年の発掘調査では大手口前面の下部から三日月堀が確認され、正確な年代は不明ですが丸馬出が築かれていたことが判明しております。

 内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられています。武田氏から徳川氏、浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われた。『甲陽軍鑑』では晴信の持仏を納めた毘沙門堂関する記事がみられ、連歌会や歌会が催される会所であったという。『高白斎記』によれば、1543年(天文12年)には館の一部を焼失したが、再建されています。


 現在、跡地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内にあたりますが、このときに南面の主殿の規模が縮小されています。また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造っています。このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまいましたが、その後の1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されています。
 遺構として土塁、堀、石垣、虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在します。そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられています。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていたとのことです。             
(ウィキペディアより)

 
■ 武田氏館跡、武田神社大手門を望む ■
大手門東史跡公園より、武田神社大手門を望む
  
大手門東史跡公園にて(1) 大手門東史跡公園にて(2)
竹田神社、案内図です
  
竹田神社、無料駐車場です 竹田神社、入口から城下方面の風景です 竹田神社大手門碑です、 "竹田神社参道入口にあります”かぶとや”さんです
  
 
Yahoo!地図より Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示) Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
 
 
           
後   記   
 武田信玄公の居城、武田氏館(跡)は、意外とこじんまりとしている感じをうけました。戦用の城というより、政務をおこなうための城と思いました。

 信玄の「風林火山」で有名な甲陽軍鑑(武田信玄の戦略・戦術を記した軍学書)の中にある勝利の礎

    「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

このことばからも、城の考え方は、違っていたのかも知れないと思いました。
ただいざ戦となれば、館の後方にある、要害山城に立てこもり戦ををするようになっていたようです。

 武田神社建立に際の造成で館跡を崩したことは残念と思いました。武田氏を奉ることを考えば、当時としてはやむ得ないことであったのかもしれないが・・・・。
 次は、要害山城を見に来たいと思います。    
(2015/11/16)

 
 
竹田神社、現地案内板です
 
武田神社、鳥居より街(並み)を望む
 
”武田氏館跡(たけだしやかたあと)西曲輪北側枡形虎口南門跡”を望む
 


  
  
  
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